2017・・・1月5日(つづき)

f:id:TedO:20170105221046j:plain

1943年、昭和18年、日独伊三国同盟の一角イタリアが連合軍に降伏。

 この年、僕は7才になり、七五三の記念写真は軍服姿。

「末は博士か陸軍大将」と言った時代。

 この頃から、すべての家屋の地下に防空壕を掘るようになり、畳を上げて

土を掘り、そこに非常用の物資を貯えた。

 

f:id:TedO:20170105221816j:plain

毎日、外の通りでは「赤紙」(徴兵令状)を受け取った若者が戦地に狩り

だされ「勝ってくるぞと勇ましく・・・」と軍歌が鳴り響いていた。

僕の年上のいとこが出征前に寄ってくれて、記念写真を撮った。

 

 1944年、昭和19年にアメリカ軍の日本本土爆撃が始まり、学童の地方

への疎開が始まった。 僕は親戚が千葉県、埼玉県にあったから、千葉県の

香取郡伊能という今の東関東自動車道の大栄インターの近くに縁故疎開をした。

学校はその土地の国民学校に編入された。

 

 学校生活は「疎開疎開」と地元の生徒からいじめを受けたが、時間が経つと

疎開組のほうが学業すぐれ、優等賞などを貰うものだから、いじめも無くなった。

 

 この時の担任の女性教員は東京から徴用を逃れ、代用教員として下宿生活を

しながら教鞭をとっていた。 一度勉強のことでお世話になり、親戚の親代わり

の叔母と一緒に食料を届けた。(徴用とは軍需物資の生産工場で働くこと)

 

 然し、1年後の1945年、昭和20年8月15日終戦、東京に戻った。