2017年・・・1月8日

 

 高校時代は大学受験で頭が一杯で, いわゆる「暗黒時代」であった。

ニュースも特に無かった。

 

 浪人時代が長かった。 勉強そっちのけで、小説ばかり読み漁って

いたせいだ。 不摂生で、身体ももたなかった。 浪人を放棄した。

 

 初めてアルバイトをやった。 新聞配達は朝が早いからNG。

いい具合に、大学の学生食堂の募集広告を見付けた。 朝6時起きで

片道自転車で30分の距離だし、魅力は3食付きだった。

夜は8時まで片付けがあり、家に帰ったら寝るだけで、本というもの

には全く触らない4か月。 夏休で食堂は一時休業。 そこで、一寸

頭を使った。 そのまま、コックになるか。 答えはNO。

それから6か月勉強続け合格。 諦めないで良かった! 

 

 1957年、昭和32年、21才でようやく大学入学。

この年のニュースは「関門トンネル開通」。

 

 翌年、1958年、昭和33年はビッグな年だった。

東京タワーが完成したのだ。 高さ333メートル。

何から何まで目出度い。 何故? 僕のラッキー・ナンバー

「3」のオンパレードだから。 

それと、これは冗談だが、東京タワーが倒れたら我が家の屋根に

ぶつかる位近かった。

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  僕の青春時代は1960年、昭和35年、大学3年から始まった。

この年はそれを祝うかのようにカラー・テレビの放送が開始された。

 

大学生が運営する社交ダンス講習会に参加、女の子の手を握り、

スカートの上からだが、腰を抱き、胸を合わせて踊るのは天にも昇る

心地だった。 そのうえ、誘うとみんな付いてきて、同伴喫茶とか、

公園、遊園地デートとか、キスの味も覚えた。

 

 

 

 

 

2017年・・・1月7日

 1949年、昭和24年、1ドル=360円の固定為替相場制となる。

 この年、日本人初のノーベル賞湯川秀樹博士が受賞する。

 

 僕は中学生となり、充実した学生生活を過ごしていた。

部活は美術部に入った。 部長は勿論、美術の先生。 先生は二科会の会員で

上野美術館で催された二科展に連れて行ってくれた。 友人のアトリエに連れて

行ってプロの絵描きさんの仕事場を見せて貰ったのが印象的だった。 然し、

僕には絵画という平面的な表現には興味が持てず、才能も無いことだし、高校

受験のほうに関心が移っていった。

 

 この中学というのは六本木の近くにあった。戦後の教育熱が盛んだった

こともあり、熱心な先生がおられた。 何十年後の今でも鮮明に記憶が蘇る、

数学のK先生、英語のN先生、漢文・国語のK先生、家庭科のT先生。 

特に、英語のN先生は青学のアイスホッケーの選手だったそうで、色白で

ハンサム、今流のイケメンで独身だったから、女子学生の注目の的だった。

然し、このイケメン先生が英語教育に猛烈に熱心で、米軍将校の奥さんを

数名呼んできて、我々に生の英語を聞く機会を作ってくれた。

 

 当然ながら、この時代はアメリカにかぶれ、あこがれ、僕などはその先頭

にいたように思う。 日本のものはすべて悪い、間違っているという偏見も

持ったようだ。 とにかく、中学時代が僕の精神的な支柱を作ったのである。

日本の文物軽視、西洋文化を有難がる気風が沸き上がったのは、この後すぐ

である。

 

 1950年、昭和25年という年は切りの良い年号である。この年は

朝鮮半島で北の共産軍と南の民主主義勢力の間に朝鮮戦争が勃発、北緯38

度線で北朝鮮と韓国に分裂。 然し、日本経済にとっては有難いカンフル剤

となった。

 

  

2017・・・1月5日(つづき)

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1943年、昭和18年、日独伊三国同盟の一角イタリアが連合軍に降伏。

 この年、僕は7才になり、七五三の記念写真は軍服姿。

「末は博士か陸軍大将」と言った時代。

 この頃から、すべての家屋の地下に防空壕を掘るようになり、畳を上げて

土を掘り、そこに非常用の物資を貯えた。

 

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毎日、外の通りでは「赤紙」(徴兵令状)を受け取った若者が戦地に狩り

だされ「勝ってくるぞと勇ましく・・・」と軍歌が鳴り響いていた。

僕の年上のいとこが出征前に寄ってくれて、記念写真を撮った。

 

 1944年、昭和19年にアメリカ軍の日本本土爆撃が始まり、学童の地方

への疎開が始まった。 僕は親戚が千葉県、埼玉県にあったから、千葉県の

香取郡伊能という今の東関東自動車道の大栄インターの近くに縁故疎開をした。

学校はその土地の国民学校に編入された。

 

 学校生活は「疎開疎開」と地元の生徒からいじめを受けたが、時間が経つと

疎開組のほうが学業すぐれ、優等賞などを貰うものだから、いじめも無くなった。

 

 この時の担任の女性教員は東京から徴用を逃れ、代用教員として下宿生活を

しながら教鞭をとっていた。 一度勉強のことでお世話になり、親戚の親代わり

の叔母と一緒に食料を届けた。(徴用とは軍需物資の生産工場で働くこと)

 

 然し、1年後の1945年、昭和20年8月15日終戦、東京に戻った。

 

 

2017年・・・1月5日

 1942年、昭和17年、ミッドウェー海戦の敗北から日本は地獄の敗戦に

向かって真っ逆さまに突き落とされる。

 僕は6才になったが、東京の町はまだ平和そのもの。

 ところが、僕はとんでもないことをやってしまった。

 この頃の地方出身者の住宅事情を説明しておく。今のようなアパートとか

マンションとかが出来る前は、「貸間」とか「下宿」とか、空いている部屋を

部屋貸しすることが一般的だった。 風呂は「銭湯」、食事は近所の食堂か

買い食い、トイレは大家さんと共用。 つまり、学校とか勤め先から帰宅

しても、着替えと寝るだけであった。

 我が家に独身男性が下宿しており、朝食を食べに近所の知人宅に出ている

留守に僕が二階のその部屋に入り、煙草の箱を見付け、大人の真似をして

煙草に火をつけ、一口吸い込んだ。 とたんにむせて、火を消さないで

紙屑籠に投げ込んで、下に降りてしまった。

 外を通りかかった人が、窓から煙が出ているのを見て、「火事だ」と

騒いだ。 煙が階段を伝って階下にも流れた。 それを見た母親は洗濯用の

盥(たらい)に水を半分くらい入れて、両腕で抱えて階段を上がった。

たらいは直径1メートルはあり、女の細腕で良く持てたものだ。 これが

ほんとの「火事場の馬鹿力」である。 消防自動車も来たが、火はボヤで

済んだ。 消防署の報告は紙屑籠のあったところに、ラジオの配線があった

ので、「漏電」で済ましてくれた。 故意ではないが「放火」の罪を逃れ、

子供心に胸を撫でおろした。

 大学入学後、母親に事実を白状したら、「お前がやったの!? まー!」

と驚いていたが、15年も経っていたせいか怒られなかった。

 煙草は大学4年生、24才まで吸わなかった。 

 

 

2017年にやりたい事、1月4日

 1936年、昭和11年2月、二・二六事件が起き、軍部の勢力が強まる。

 僕はこの年の3月に神奈川県横須賀市で生まれたと戸籍謄本にある。

聞くからに物騒な年に生まれたものだ。実家は貧しく、口減らしのため

跡継ぎのいない伯父夫婦に貰われた。幸い、伯父は実母の兄にあたり、

血が繋がっていたから、実子のように大事に育てられたようだ。

ここからは養父母を単に父母と呼ぶ。住まいは東京の麻布にあった。

 翌1937年盧溝橋事件をきっかけとして、日本軍は中華民国に対し

戦火を開く。1939年にドイツがポーランドに侵入、ここに第二次世界

大戦の火ぶたが切って落とされる。1941年12月ハワイ真珠湾攻撃

日米英開戦。

 僕の記憶は丁度5才になったこの頃からしか無い。もっとも、5才の記憶は

たった一つしか無い。当時の写真を見ると、丸顔で大人しそうで、さもあり

なんと思われる思い出がある。近所に小さな町工場があり、そこの4才くらい

の女の子と仲が良かったらしい。あるとき、家人が留守らしく、彼女に誘われて

二階にあがり、道路に面したベランダに出た。手すりはセメントで出来ており、

外からは見えない。彼女はパンツを脱いで、下半身スッポンポンになり、僕にも

脱げと言う。それから向かい合って小便小僧のように、水と水をぶつけあうこと

になった。ところが、そこへ彼女の母親が現れ、僕の方が年上だから、僕がやら

せたのだろうと誤解して激怒。僕の家に怒鳴り込み、偶々父親が在宅していて、

こっぴどく叱られた。

 僕としては、女の子のほうから誘ったのだと言い訳すべきなのだが、父の剣幕

が凄く言い出せなかった。女の子がどうしてそんな遊びをしようとしたのか、

未だに謎である。 

 

 

 

2017年にやりたいこと 

筆者は日記を付けたことが無い。 

昨2016年、平成28年に80才に到達。

1986年、丁度、昭和から平成に変わる直前に50才になり、

あとは「おまけ」の人生だから「やりたいこと」を思う存分やろうと、

サラリーマン生活と決別。

80才になったら、新たに「やりたいこと」が無くなった。

そこで始めたのは暇に任せて、書きたいことを書くという生活。

大学受験で浪人し、予備校に通ったが、効果は無く、図書館で独習をした。

勉強に飽きると、古い西洋文学全集や大正・昭和文学全集を読み漁り、

そのあとは、おもに現代作家の小説を読んでいた。

当時の夢は、いずれ自分も小説を書くこと。

つまり、人生の最終目的は長編小説を書くこと。 

従い、人生そのものも小説のネタ作りにしようと考えていた。 

男女の色恋沙汰を織り込んだものを書きたかったので、

仕事はお堅い方面を避けて、比較的自由な総合商社を選んだ。

時代が可能にしてくれたのだが、かなり波乱万丈な人生を送れた。

その人生に題材を求め、まず自伝やエッセイを書いてみた。

自分では結構面白いのだが、極力客観的に読むと、時代を書き込んでいない

から物足りないのではないかと考えた。

2016年は日米両首脳が相互に第二次世界大戦の犠牲者の弔問を行った

記念すべき年である。

昭和11年~平成28年プラスアルファ、即ち、80年以上の歴史の中で

生きた自分を描けば意味もある。

そこで、楽に書くために時間の序列は無視した自由なメモ日記をつけてみたい。

つながりは考えずに1回ごとに完結するつもりだが出来るかどうかは不明。

物語は日本史で「いくさ空しい」満州事変と覚えた1936年、昭和11年の

二・二六事件の年から始まる。

 

では、次回からスタートする。

 

 

 

老 人 の 愛 と 性

 

 最近、何かで高齢者の愛と性の話が「いい年をして」という言い方で片付け

られたのを見て、異論を唱えたくなった。

 

 筆者は80才と十分に老人の男性であり、人生経験も人並みか、それ以上と

自負している。

 

 高齢の男女がからんだ愛とか性を取り上げた小説、ドラマは少ない。

 

 筆者は2014年に亡くなられた渡辺淳一氏のファンで、長編小説は殆んど

所蔵している。

 

 同氏は老人たちを主人公にした『エ・アロール』という小説を書かれた。 

舞台は進歩的な高級老人ホームで、その中での恋と性を扱っている。

 

 『シャトウ・ルージュ』では、ついに、渡辺氏が渾身の力を込めて

女性の性のすべてを読者に見せてくれた。 

 

 更に、亡くなる直前に『愛ふたたび』という小説を残された。 

70台の男性医師が、一人は40台、もう一人は20台の女性と男女関係に

あった。 突然、EDになった男性は慌てるが、女性たちはインサートしなく

ても満足しているから気にするなと言ってくれて安心するという話。

 

 老人の性という難しいテーマを渡辺氏流に美しく、爽やかに語っておられる。

然し、筆者は不満を感じた。 渡辺氏の美意識ではそれ以上踏み込んで書け

なかったのか、体力的に書けなくなってしまったのか、渡辺氏の作品としては

物足りなかった。

 

 他に、フランス人で医師、映画監督のイブ・シャンピ氏と結婚、そして、離婚

された大女優の岸恵子氏は女優になる前は作家志望だったそうで、2013年に

出された『わりなき恋』では、69才の独身女性に59才の家族持ちの男性が

恋をし、愛しあうという話しで、老人女性の性が鮮烈に描かれている。

 

 ドラマでは、外国映画だが女性を満足させるテクニックを若い男性が学んでいく

話しを2本見付け、別の世界を覗き見たような感じがした。 男の性と女の性が

どれだけ違うのかなど、まったく意識しないで、また、知ろうともしないで人生が

終わるところであった。 ドラマの中の男女の触れ合いの見方も違ってきた。

 

 努力の甲斐あってか、最近、神秘的ともいえる女性の性のほぼ全貌が見えて

きたのである。 男性は70才を過ぎて、EDとなり、燃えがらの如くなるのに

対し、女性は年齢を重ねても、性感が衰えるどころか、強くなることもある。

女性が主役であるが、ダンスのように、男性のリードも重要である。

 

 また、精神面、感情面とか複雑な要素もあるようだ。 即ち、相手との気持ち

の関わり方である。 所謂、「愛」があるか、無いかが重要なのである。「愛」

と言っても難しいことではなく、相手を大切に思っているか、喜ばせたいと思う

気持が充分強いかである。 これはデリケートな分野で、一寸した言葉や動作で

気分が変わってしまうので、お互い気を使う必要がある。

 

 男性の女性に対する、所謂、愛撫というのが、最も肝心な点で、部署、強弱、

頻度、間隔、順序など、女性の反応を見て発見を重ねていくのも、双方にとって

嬉しく、楽しいことである。

 

 さて、少し、一般的な話に戻るが、男女共に若い時から老齢に至るまで、生活に

取り紛れて、性に関すること、なかでも、男性の満足と女性の満足に大変なへだ

たりがあることに気が付かない。 極端な場合はセックスレスになって、

その話題すら長期間触れられないこともあるようだ。 「年だから」と。

 

 日本女性は奥床しく、自分から男性に催促もしなかったり、しても何の変化も

起こらないとそのままになり、大きな快楽と満足を知らずに一生を終える。

恥と思って、姉妹・友人にも相談をしないのが普通のようだ。

男性も女性も無知のために損をしていることに気が付かない。

 

 渡辺淳一氏の作品は男女の性を優しく描いて読者の共感を得たと思うが、

もし、未読なら、人生を無為に終わる前に読んで、愛する人を幸せにしては

どうか。 村山由佳氏の『ダブルファンタジー』『ありふれた愛じゃ

ない』も目覚めた女性の叫びと、筆者は感じている。

 

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